ダイアリー

酔狂の旅


 Diary = 日記という名前にしましたが、毎日書く訳でもなく、書きたくなったら書きたいように書くという態度で進めたいと思っております。したがって形式もテーマも、全体的に は、不統一なものになることと思いますが、それでかまわないと思っております。
 ぼくの生活を書くわけですから当然、音楽のことが多くなることと思います。趣味の読書や釣り、料理や酒、旅の話題なども多くなることでしょう。時には、研究の中間発表のよう なものとなるやもしれません。また時には、以前に新聞の連載コラムやスイング・ジャーナルなどの雑誌に書いたものと内容が重複することもあるかもしれません。それもそれでま た、かまわないと思います。50を過ぎて、かつて自分が感じ入り、書き残したものを振り返り、再点検したいという思いもあります。
 なにとぞ末永くおつきあいのほど、お願い申し上げます。
 さらに、皆様に読んでいただくことを前提にしたページですから、多少でもお心に届く文章がございましたら、感想をBBSのページにお寄せいただければこれに勝る喜びはありま せん。


2013年新潟日報連載「名曲の旅」−7
2017/08/07
名曲8埴生の宿.TXT
◎『名曲の旅』(8)
「埴生の宿」(作詞:里見 義 作曲:ビショップ)
      丸山繁雄

 この歌は映画「ビルマの竪琴(たてごと)」で初めて知った。1956年市川崑監督。5歳の私は母校・大和小学校での村の「映写会」で観(み)た。
 ジャングルの中の涅槃(ねはん)像、野ざらしの白骨、そして水島上等兵がオウムを肩に竪琴で別れを告げた「埴生(はにゅう)の宿」。小児の私がこの映画から感じた恐怖は61歳の今日まで消えることがない。南方ビルマの非日常性も衝撃だったが、何よりも私がおびえたのは、作品に流れる「戦争」という恐怖の底流だった。
 終戦からまだ10年の当時、家でも学校でも、私たちの世代は徹底して「反戦」の教育を受けた。戦争は人類に起こりうる最悪の犯罪であり、日本は世界で唯一、非武装中立の平和憲法を戴(いただ)く平和国家として生まれ変わったと。
 戦争の記憶はいともたやすく風化する。あの水島上等兵が当時25歳だと仮定すれば、今年は93歳になる計算だ。昨今の改憲論や従軍慰安婦必要論、さらには「国防軍」等という用語がメディアで飛び交う現実に、私などは背筋の寒くなる思いがする。改憲論者は護憲論者を一様に「非現実的理想主義」と斥(しりぞ)ける。しかし大戦後60年以上、日本の子どもたちが戦場に行くことなく、学問や事業やスポーツに大活躍することができたのは、ひとえに平和憲法のおかげである。これ以上「現実的」な憲法と選択肢が果たして他にあっただろうか。
 「埴生の宿」とは土間で暮らすほどの粗末な家の意。貧しくともわが家が一番と歌う。わが子の寝顔に一日の疲れを忘れる「埴生の宿」のしあわせは平和あってこそ。戦争とはどう言いつくろっても殺し合いに過ぎない。どこの家の子も、人殺しなどをするために生まれてきたわけではない。わが国の子孫のみならず、世界中の子どもだれ一人として、戦争などで死なすわけにはいかないのである。
(ジャズ演奏家、上越市出身)
(了)




2013年新潟日報連載「名曲の旅」ー6
2017/03/24
名曲7男はつらいよ.TXT
◎『名曲の旅』(7)
「男はつらいよ 主題歌」(作詞:星野哲郎 作曲:山本直純)
      丸山繁雄

 「寅さんは欠陥人間だから」。山田洋次監督が一度こんな言葉で寅さんを語ったことがある。たしかに人生の諸事多方面で寅さんは不適応である。だが、こと恋愛に関しては、私は寅さんのことを、実にバランス感覚を身につけた達人だと思っている。
 「男はつらいよ」は恋愛映画である。シリーズ全作にわたって、一つの恋を中心に物語が展開する。寅次郎の恋は一度も実ったことがない。何しろ自分の恋心を打ち明けたことすら一度もないからである。相手にすでに意中の人がいることが判明したり、自分よりもふさわしいと認めざるを得ない人物が出現したりして、寅次郎は常にその恋心を、たった一人の胸のうちに秘めて旅に出る。かくて寅次郎は、ただの一度も女性を傷つけたことがない。これこそ、凡夫にはなかなか至れない境地である。「どうせおいらはやくざな兄貴、わかっちゃいるんだ妹よ。」寅次郎の優しい心根を歌いこんだ主題歌も、大衆に愛されるすべての要素を備えている。やくざな男の恋は実ってはならない。無頼とは世間的な幸せと引き換えに得た、苦い自由の形なのだ。
 「おさん・茂兵衛」、「ロミオとジュリエット」等、命と引き換えに恋の成就を遂げる古典は多い。殺人に至るほどの激越な愛もある。それに対し、山田洋次的恋愛観はあくまで利他的で清冽(れつ)。更に、常に弱者の目で描く作風は当然、圧倒的な国民的共感を勝ち取った。
 山田洋次監督が拙作「I Sing Samba」を気に入っていただいたご縁で、シリーズ第35作、「寅次郎恋愛塾」にわがバンド「丸山繁雄酔狂座」で出演した。34歳の時だった。大船の撮影所で「こちらが『丸山組』の丸山繁雄さんです」助監督が映画人特有の言い回しで私を山田監督に紹介した。「お世話になります。よろしくお願いします」。山田監督は物静かに私に手を差し出した。私は緊張で汗ばんだ手をズボンで拭って握手した。
(芸術学博士・日大講師、上越市出身)
(了)



2013年新潟日報連載「名曲の旅」ー 5 
2017/03/24
名曲6ドリフのほんとに.TXT
◎『名曲の旅』(6)
「ドリフのほんとにほんとにご苦労さん」(作詞:野村俊夫・なかにし礼 作曲:倉若晴夫)
      丸山繁雄

 小学校の入学式の日に教室で、サングラスと手ぬぐいで「月光仮面」のまねをして担任をあきれさせた。担任は叱るのを忘れて吹き出していた。生家では私が成人して後まで、これが語りぐさになった。「8時だョ!全員集合」で加藤茶が「あんたも好きねえ。ちょっとだけよ」とストリップショーのまねごとを大ヒットさせたとき、全国の教室の机の上で、たくさんの小学生がこれをまねたことは間違いない。そして間違いなく担任に叱られ、廊下に立たされたことだろう。友達を笑わせることは、叱られることの不利益を補って余りある、それほどにも楽しいことなのだ。
 「全員集合」が爆発的な人気を誇った当時大学生だった私は、おいやめいがテレビの前でドリフの替え歌やナンセンスギャグをまねる姿に幼いころの自分を重ねていた。そしてその親たちもまた、確かに、無邪気な笑いを共有していた。
 「ワースト番組」の筆頭にあげられ、放映のたびにPTA関連の苦情が殺到したというこの番組は、最盛期には50%もの視聴率を記録し16年間の長きにわたってお茶の間に愛された「国民的テレビ番組」である。
 ナンセンスギャグとは知のB級グルメとでもいうべきものであろう。もう一方の国民的テレビ番組「大河ドラマ」が歴史上の英傑を取り上げ、いわば君子の大賢をありがたく学ぶ場であるのに対し、ギャグの方は生身の人間の不完全さを肯定する。そしてそれをデフォルメし、笑い飛ばすことによって、見るものにより深い共感と人類愛を与えるのである。
 ドリフの健全な幼児性はPTAの倫理的原理主義に完勝した。お下劣でも何でも人々は毎週土曜日、腹を抱えてこの国民的番組を楽しんだのだ。太古の昔より、人がギャグを楽しまない時代はなかった。「弥次喜多」も「坊っちゃん」も「トム・ソーヤーの冒険」も、健全な幼児性がいかに人々の精神生活を豊かにしてきたかを物語っている。
(芸術学博士・日大講師、上越市出身)
(了)



2013年新潟日報連載「名曲の旅」−4
2017/02/26
名曲5正調博多節.TXT
◎『名曲の旅』(5)
「正調博多節」(民謡)
       丸山繁雄

 小学生のころだろうか、テレビで赤坂小梅が「黒田節」を歌っていた姿が記憶に残っている。高島田に左褄(づま)をとった市丸や勝太郎などとは異なり、前割れで両の脚を開いてすっくと立った貫禄十分の立ち姿が強烈だった。鍛え上げた太い声の立派さはおぼろげに覚えてはいるが、父や母が褒めそやす、いわゆる「小梅節」の魅力というものが、少年の私にはよくわからなかった。
 それにしても「うぐいす芸者歌手」と分類された歌手は、今では絶滅と言っていいだろう。戦前・戦後にかけて、女性の社会進出も盛んでなく、「のど自慢」やタレントスカウトなど、一般人が歌手になるルートが乏しかった時代、「うぐいす芸者」が活躍したのには必然性があったのだということを最近知った。
 私の方は後年日本舞踊家と結婚し、邦楽が人ごとではなくなる。舞踊一家である家内の実家で通い稽古をつける杵屋三之助師について、私も長唄をしばらく習った。私の長唄の方はやがて、「こんな難しいものをやる時間があったら私は本業のジャズの勉強に励まねばならない」と悟り、お師匠さんにはその旨、丁重にお詫び申し上げ、お稽古を中断する。
 家内は舞台では長唄や清元などを踊るが、くだけた席では小唄や端唄などの小品も踊る。家内が「正調博多節」を踊るときは自分で振りをつけた「人形振り」で踊る。家には何種類かの「正調博多節」の音源があるが、こっくりした赤坂小梅が抜群だった。この名曲だけは何とかものにしたくてひそかに練習し、何度か共演したが、家内の評は厳しかった。「間」が違うという。テンポ・ルバート(一定のテンポを設定せず、演奏する)はジャズでもあるのだが、「一呼吸」という長さがどのくらいなのか、これが難しい。
 九州には毎月丸山ボーカル教室のレッスンに通う。博多の空港に降りるたびに、今でも「正調博多節」が脳裏をよぎる。実は今でもひそかに練習しているのである。
(芸術学博士・日大講師、上越市出身)
(了)



2013年新潟日報連載「名曲の旅」−3
2017/02/26
名曲3リンゴ村から.TXT
◎『名曲の旅』(3)
「リンゴ村から」(作詞:矢野亮 作曲:林伊佐緒)
       丸山繁雄

 上野駅前の交番で、帰省の汽車賃が足りず、学生証を見せていくらかを借りたことがあった。学生になって初めての帰省の時だから昭和44年の夏である。「返したの、そのお金」と先日女房にいわれ動揺した。茫々(ぼうぼう)44年のかなたのことである。
 「利用できるものは利用しなきゃな」。そのとき私にお金を用立ててくれた若いお巡りさんが、やさしくこう言ったことだけは、一字一句なぜか正確に覚えている。
 当時のダイヤを調べてみた。上野を23時58分に出発した急行妙高号は翌朝7時38分に直江津に到着する。私はひと駅手前の高田で下車したはずだが、その帰省はまる一晩、7時間ほど何も食べずにいたことになる。金のないことが苦痛とは思わなかったのはただただ若さのなせることだろう。
 当時上野の不忍口から地下鉄銀座線につながる地下道には、戦後の匂いが充満する食堂街があった。駅の近代化で50軒ほどあった飲食店も2002年にはすべて廃業したが、私はかろうじてその客になることができた。40代の末の何年間か、毎週末仙台に通い、英語教師で糊口(ここう)をしのぐ生活が続いたからだった。渋谷でのジャズのレッスンを夕方6時に終え上野駅に向かうと、東北新幹線の最終までしばらく食事の時間がとれた。「柳家」という上野駅に最後まで残った一軒で晩酌した。「柳家」には「リンゴ村から」がしばしば流れた。天才歌手三橋美智也・昭和31年の大ヒット曲だ。この望郷の思いは、われわれ地方人にとっては何の説明も要らない。三橋の名唱も手酌の酒も心にしみたが、当時の私は感傷に浸っている場合ではなかった。越後に帰るわけではない。仙台には戦いに行くのだ。
 苦労人だった私の父の晩年は涙もろく、晩酌の度にテレビの歌謡曲に涙を流した。無論父ほどの苦労人ではないが、もう若くない私には金のないことは骨身にしみてつらいことだった。
(芸術学博士・日大講師、上越市出身)
(了)